大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成5年(う)1014号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役九年に処する。

原審における未決勾留日数中五〇〇日を右の刑に算入する。

理由

一  本件控訴の趣意は、弁護人飯田修作成名義の控訴趣意書及び控訴趣意補充書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

二  所論は、要するに、原判決は、被告人に完全責任能力を認めているが、本件犯行当時、被告人は、覚せい剤精神病の影響(幻覚、妄想)と多量の飲酒による異常酩酊によりもたらされた異常な精神状態にあって、是非を弁別する能力を喪失していたか、少なくとも著しく減退させていたのであるから、刑法三九条一項を適用して無罪を言い渡すか、少なくとも同条二項を適用して刑を減軽すべきであり、したがって、原判決には、この点に関し、事実認定の誤り、ひいては法令の適用の誤りがあり、これらの誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。

三  そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を合わせて検討するに、原審で取り調べた関係各証拠を総合すれば、本件犯行当時、被告人は、覚せい剤精神病又はその再燃現象(フラッシュバック)による幻覚妄想状態、病的酩酊又は複雑酩酊などによる異常な精神状態にはなかったと認められるが、被告人の爆発性等を主な特徴とする人格障害に、覚せい剤精神病の残遺症状及び多量の飲酒による影響が加わった状態で、何らかの刺激が誘因となって爆発的興奮が生じた疑いが残る。したがって、被告人は、本件犯行当時是非善悪を判断し、その判断に従って行為する能力を喪失した状態にはなかったものの、その能力が著しく減退した状態にあったのではないかという合理的疑いを払拭することができないから、被告人が完全な責任能力を有すると認めた原判決には、心神耗弱の状態にもなかったと認めた点において判決に影響を及ぼすことが明らかな事実認定の誤りがあり、ひいては法令の適用を誤ったものというべきである。以下に補足して説明する。

四  まず前提として、本件犯行の状況、本件犯行と被告人との結び付き、本件犯行前後の被告人の外形的な行動、その周辺の状況等について検討すると、次のように考えられる。

1(一)  関係各証拠によれば、次のような事実が客観的に明らかである。すなわち、〈1〉平成二年三月一一日(以下、平成二年三月一〇日及び同月一一日については、「平成二年」の記載を省略する。)午前一時半ころ、東京都豊島区池袋〈番地略〉所在のホテルローヤル二〇二号室において、同ホテルの従業員らは、A子が浴室のわずかに水が入っている浴槽内で、全裸で膝を折り曲げて座るような形で倒れているのを発見したこと、〈2〉A子は、その際すでに死亡していたこと、〈3〉A子の死因は、急性窒息死であって、扼頚によって生じた可能性があること、〈4〉A子には、頚部右前部に明らかな皮下出血があるほか、全身にわたって皮下出血や表皮剥奪が分布し、顔面、外陰部、肛門には裂創状変化があり、鼻骨骨折があること(なお、司法警察員作成の平成二年三月二六日付け実況見分調書の写真74及び75によると、A子の鼻や口から出血していること、同女の陰部や肛門からも出血していることなども認められる。)、〈5〉A子の腟内容や肛門内容から、精子は検出されなかったこと、〈6〉その際の右二〇二号室内の状況としては、ベッドの枕頭台付近やベッドの側部が接している客室南側の壁に設置された大型の鏡(縦約一メートル、横約一・九メートル)には、その左上隅の部分を除きほぼ全面にわたって極めて多数の血痕が付着しており、客室の天井の中央で窓寄り辺りにも二〇滴以上の小さな血痕が付着していたこと、〈7〉ベッド上の足側に乱雑に寄せて置かれていた寝具のうち、枕一個、掛け布団カバーの頭側の部分、シーツ全面のほぼ四分の三とその下に敷かれていたと思われる防水マットがA子のものと認められる多量の血で汚れていたこと、〈8〉以上のほか、その後の検証(実況見分)などに際し、洗面所前の床に数個の血痕とみられる痕跡、浴室ドアの取っ手に血の付いた手で握ったと窺える血液の付着、浴室入口の壁に血液の陽性反応、客室の椅子二脚のうちベッドに近い側に置かれていた一脚の背もたれ部分の上部の四箇所に血液反応などがみられたが、客室床部分からは顕著な血痕が検出されなかったこと、〈9〉なお、A子の着用していたセーターと革コートがベッドの上に、スカートとブラウスがテーブルの北側床上にそれぞれ脱ぎ捨てられ、パンティストッキング、パンティ、ブラジャー各一枚が、テーブルの南側下に腰掛け部分が差し込まれていた椅子の上に丸めて重ねられた形で置かれていたことなどが認定できる。

そして、右認定の各事実とりわけ死因や死体に残る創傷の状況等を総合すると、A子が、右二〇二号室内において、何者かによって殺害されたことは明らかであり、また、A子は、死亡前に、その顔面はじめ全身にわたって手拳等によって殴打されたり爪で引っ掻かれるなどの激しい暴行を加えられたこと、陰部等が鈍器によって傷つけられたこと、また、頚部に扼頚的作用が加えられ、こうした頚部圧迫によって死亡するに至ったことなども十分に推認できるのである。

(二)  次に、被告人とA子の死亡との関わりについてみると、関係各証拠によれば、被告人は、三月一〇日午後九時過ぎごろ、A子と一緒にホテルローヤル二〇二号室に入室し、三月一一日午前一時半ころ、一人で同ホテルから退出したこと、その直後、A子は、浴槽内で倒れているのを同ホテル従業員らによって発見されていること、被告人は、入室後退出までの間、同日午前〇時一〇分以降に二回フロントに出向いた以外は、終始右二〇二号室内に在室していたこと、その間に他の者が同室に訪れた形跡は全くないことなどが明らかである。さらに、被告人も、捜査段階における供述、原審及び当審各公判廷における供述いずれにおいても、被告人がA子の顔面を殴ったり首を絞めたりし、その後風呂場に引っ張って行ったりした記憶はある旨認めている。すなわち、被告人は、捜査官に対する各供述調書中及び原審公判廷における供述中で、自分とA子が二〇二号室に入った後、A子が一人で服を脱いで裸になり、ベッドの上に上がって、「あー」とか「すー」とか言った、自分は、その直後、とっさにベッドの上に上がって、A子の上に馬乗りになり、両手の拳骨でA子の顔などを何回も殴った。A子がベッドから降りてテーブルの方に逃げたので、自分は、その後を追いかけてA子を床の上に仰向けに押し倒し、前と同様に馬乗りになって両手の拳骨でA子の顔を何回も殴りつけ、そのうちに両手でA子の首を絞めた、途中で一回手を離したが、もう一回両手で首を絞めた、首を絞めていた時間はそんなに長い時間ではない、自分が再び手を離したとき、A子は「ずうずう」という感じて息を吸っており、手や足首を動かしていた、自分が「風呂に入るか」と聞いたところ、A子がうなずいたような気がしたので、A子の両脇に手を入れて風呂場に引っ張って行った、自分は、A子の乳首をかじり、性器に何かの容器を差し込んだりした後、A子を浴槽内に入れたという趣旨の供述をしている。

したがって、右認定の客観的状況のほか、前記(一)認定のA子の死体の状況、室内の状況などに加え、被告人の右のような供述を合わせ考えると、被告人が、A子に対し、その顔面はじめ全身にわたって手拳で多数回にわたって殴打する等の激しい暴行を加え、結局、床の上に仰向けに倒れたA子の上に馬乗りになって、両手でA子の首を絞めけて、A子を死亡するに至らせたことは、優に肯認できる。なお、被告人がこのような犯行に及んだ時刻については、関係各証拠によって窺われる諸状況、とりわけ、被告人とA子とがホテルローヤル二〇二号室に入った後、同室内でお茶等の飲み物も飲んだ形跡がないこと(同室内から発見された缶ビールの空き缶二個は午前〇時過ぎに被告人が飲んだものである。)、同ホテルのフロント係が、三月一〇日午前九時三〇分ころから午後一〇時ころまでの間に、右二〇二号室の方向からどすんどすんという物音を聞いたと述べていることなどに加え、被告人の述べる右のような本件犯行の状況ないし態様を合わせ考えると、被告人らが右二〇二号室に入室後比較的早い時点であったものと考えられる(この点、原判決は、本件犯行の行われた時刻を午後九時三〇分ころから午後一〇時ころまでの間と認定しているが、その根拠は、午後九時半から午後一〇時ころまでの間に右二〇二号室の方向からどすんどすんという物音を聞いたと述べる右フロント係の供述にあると窺われるところ、関係各証拠によっても、その音が何によって生じたかは必ずしも明らかでなく、右供述だけで犯行時刻を特定することには疑問が残る。)。

(三)  そして、被告人がA子の首を絞めるにあたり殺意を抱いていたことも、右(一)及び(二)認定のような被告人の行為の態様などから十分に推認できる。

なお、所論は、被告人には殺意がなく、A子を死亡させたことの認識もなかったと主張し、これを裏付ける事実として、次のような諸点を指摘する。すなわち、〈1〉被告人は、犯行後直ちに現場を離れることなく、三月一〇日午後一一時四五分ころ、同ホテルの従業員(当時五八歳の女性)が宿泊料金を取りに来た際、二〇二号室のドアを大きく開けて自分の顔を見せ、さらに、その後の三月一一日午前〇時一〇分ころ、被告人自身がフロントに来て、ビールを買うために千円札の両替をし、その際フロント係から被告人の左手に血が着いていることを指摘されたにもかかわらず、何ら動揺した気配をみせず、その後再度ビールを買いにフロントに来るなど、何度も従業員に自分の顔を見せていること、〈2〉被告人は、三月一一日午前一時三〇分ころ、同ホテルを出てから、その近くの路上で売春類似行為の客待ちをしていた女装の男性(被告人は、売春行為を行う女性だと思ったが、ホテルに入ってから男性と気付いたなどと述べている。)に声をかけて、一緒に付近のホテルを探し歩き、ホテルローヤルに近接した場所にあるホテルニューメルヘンに入るなど、本件犯行と場所的・時間的に接着したところに長時間留まっていること、〈3〉被告人が三月一一日午前五時ころ同ホテルを出た際、すでに事件の発生を知った警察官らが同ホテルの周辺までやって来て捜査などに当たっていたのに、その前後の被告人の言動は、そこに全く危機感がみられず、本件事態を意識している者の行動とはみることができないこと、〈4〉被告人としては、本件のことが新聞に掲載されるときは、犯人の特徴として自分の容貌などが載るものと当然予想できたのに、被告人が、三月一一日にスポーツ紙の拡張団員募集の広告を見て、新聞販売所を訪ねているのは、事態を理解していなかったことによるものとみられることなどを指摘する。

この点、まず前提として、関係各証拠によれば、被告人の犯行時及びその前後の状況に照らし、被告人が本件当時意識を失った状態になかったことは明らかである。すなわち、その行為に対する認識そのものを欠いていたとは認められない。一方、所論指摘の各点に関し、関係各証拠によると、被告人の外形的行動が所論のようなものであったことは認められる。しかし、右〈1〉の点については、被告人がある程度酒に酔っていて、気が大きくなり、注意力が散漫になっていたこと、ホテルローヤルに入った時点でフロント係と顔を合わせていることなどを考えれば、ホテルの従業員に何回も顔を見せたこと等の被告人の行動が特別に奇異なものということはできず、また、被告人は、従業員が二〇二号室にやって来た際、自分から出入口に出てきて応対はしたものの、逆にその際同室の内側ドアを閉めて、従業員に同室内を覗かせなかったことも明らかである。次に、右〈2〉の点に関しては、関係各証拠によると、被告人は、女装して客待ちをしていた相手方に、被告人の方から近寄って行き、料金を聴いて、二万円と言われたのに対し、一万五〇〇〇円に値切ったこと、被告人は、相手方との交渉が成立後、二人で空室のあるホテルを探して歩くうち、前方に赤灯を付けていないパトカーが止まっているのが見えたが、その際相手方の三メートル位先を歩いていた被告人が引き返すような形で、直ちに相手方と腕を組み、近くにあったホテルニューメルヘンに入ったこと、被告人は、同ホテルの二階の部屋で休憩をとることになったが、同室内で相手方から性的な行為に及ばれても、性的興奮を見せなかったため、相手方が三〇分位して先に帰り、被告人一人のみが午前五時ころまで同室内に留まっていたことなどが認められる。そして、被告人の右のような行動状況をみると、被告人が売春をする女性(実際は男性)とホテルへ入るという行動に出たのは、被告人としては、ホテルローヤルを出た際、時刻が午前一時半過ぎというすでに電車等も走っておらず、行動に不自由な時間帯であったため、もっともらしい形をつけてホテルへ入り時を過ごそうとしたものと窺えるのである。そして、所論指摘のその余の諸点をみても、被告人のその際の言動は、むしろ外形的に平静を装おうとしたものともみられ、これらの言動から、被告人が当時自らの行為によってA子を死亡させたことの認識もなかったという疑いが生じるということはできない。

以上要するに、関係各証拠を総合すれば、被告人が殺意をもって本件犯行に及んだことは十分に認定することができ、所論指摘のような諸状況をみても、これに疑念を抱く余地はない。したがって、所論は採用することができない。

2  次に、関係各証拠を総合すれば、被告人の本件犯行前の生活状況、本件犯行直前の状況、及び犯行後の行動について次のような事実が認められる。すなわち、

(1) 被告人は、平成二年一月二四日ころ、読売新聞西大井サービスセンターに雇用され、東京都品川区、大田区の読売新聞販売店一四店が共同出資している新聞拡張会社に派遣されて新聞拡張の仕事をし、営業成績も職場における評判も良く、同年二月には三二万円もの収入を得るなど、通常の社会生活を営んでいたこと、雇い主、同僚らのうちにも、被告人の言動等に異常を感じて、被告人に精神障害があるのではないかなどという疑いを抱いた者がいなかったこと

(2) 被告人は、三月一〇日午後五時過ぎから、A子とともに池袋駅近くの東京都豊島区南池袋一丁目所在のサッポロライオン池袋店に入り、同店で生ビールの中ジョッキ一杯位と小ジョッキ六杯位を飲んだが、同女においてはジュースを飲んだのみであったこと

(3) 被告人は、同店で途中から同女の横に座って一方的に同女に話しかけていたが、余り話しは弾んでいる様子ではなく、午後六時半過ぎころ代金を支払い、同女の肩を抱くようにして同店を出たこと

(4) 被告人は、午後七時二〇分ころ、同区南池袋一丁目所在のパブユアーズに、A子の肩を抱くようにして入店したが、その際、被告人においてはかなり酔った様子をみせ、足下はしっかりしていたものの、目つきが酔っているような感じで、ビールなどを注文する際の口のききかたも乱暴だったこと

(5) 被告人は、同店においてはビール小瓶(三五〇ミリリットル入り)五本を次々と注文して飲み、A子は、ジュースを飲んでいたが、被告人が途中から同女の横の席に移って話しかけ、これに対し、同女が下を向いて話しを聞いていたこと

(6) さらに、被告人は、隣席にいた女性を含む銀行員のグループがツイストを踊り出すや、これに勝手に割り込んで行って一緒に踊ろうとしながら、そのうちの一人の女性に近づいて「いい女だね」と声をかけたり、その後さらにそのグループの別の女性がボックス席に座っているところに行き、同女に踊ろうとしつこく誘いかけ、両肩を抱くようにして引っ張るなどし、そのため同グループの者から自席に戻るように言われたにもかかわらず、これになかなか応ぜず、店員から注意されてようやく自席に戻ったこと

(7) 被告人は、その後再びA子の横に座って、同女の手を握ったり、手の甲や首筋にキスをしたりしていたが、同女においては被告人にされるままにしていたこと

(8) 被告人は、A子と一緒に午後九時ころ同店を出て、二人で空室のあるホテルを探して同区池袋一丁目付近のいわゆるラブホテル街を歩き回った後、ホテルローヤルに入ったこと

(9) 被告人は、ホテルローヤルで、いったん宿泊を頼んだが、フロント係から、「お泊りですか、御休憩なら空いているんですけど」と言われ、A子も「休憩でいいじゃない」などと言ったことから、結局休憩するということで同ホテル二〇二号室に入ったこと

(10) なお、犯行後の状況として、被告人は、三月一一日午前五時ころホテルニューメルヘンを立ち出た後、いったん当時の勤め先の寮に帰り、勤務先との間で給料や前借金の清算をすることもなく、行き先も告げずに右寮から荷物を持って立ち去っていること

(11) 被告人は、本件犯行に際しホテルローヤル二〇二号室にメガネを置き忘れたが、同年五月末か六月初めころ、東京メガネ札幌そごう店に、被告人の父親のように装って電話をかけ、息子に頼まれたと称して、コンピューターに登録されている被告人に関するデータを抹消するように執拗に要求し、結局、これを抹消させるに至ったこと

などの事実が認定できる。

五  1 所論は、被告人の本件当時の精神状態について、次のように主張する。すなわち、原判決は、「争点に対する判断」の項において、被告人は覚せい剤精神病の残遺状態にあり、それが飲酒の影響などで活発化し、その結果被告人が何者かに付け狙われているとの不安感を抱いた可能性は否定できないものの、右の不安感には切迫感がなく漠然としたものに止まっているのであり、ビアホールを出るころから確固たる妄想に支配され、直接に動機付けられて本件犯行に及んだとは考え難く、幻覚も存在しなかったと解するのが相当である旨説示している。しかし、本件は、被告人が覚せい剤精神病により専門病院において治療を受けている間に発生したものであり、覚せい剤精神病(幻覚妄想状態)の残遺症状と大量の飲酒が重なってフラッシュバックの状態となり、何者かに付け狙われ、A子はその一味であるとの妄想を抱き、妄想状態で本件犯行に及んだものであるから、原判決にはこの点に事実認定の誤りがあるというのである。

2 そこで検討すると、まず、医師中谷陽二作成の精神鑑定書及び証人中谷陽二の原審公判廷における供述(以下、双方を合わせて「中谷鑑定」という。)、医師徳井達司作成の精神鑑定書及び証人徳井達司の原審公判廷における供述(以下、双方を合わせて「徳井鑑定」という。)並びに医師福島章作成の精神鑑定書及び証人福島章の原審公判廷における供述(以下、双方を合わせて「福島鑑定」という。)を総合すれば、被告人には、精神分裂病や躁鬱病などの内因性精神病の発現がないことは明らかであり、覚せい剤精神病についても、被告人にはかつては覚せい剤の乱用によって幻覚や妄想の出没した時期があったが、覚せい剤を止めてから九年近い年月を経て、この種の病的体験が軽度なものとなっており、新聞拡張員として一応の社会生活も行うことができるなど、本件犯行当時は覚せい剤精神病の残遺症状があるにとどまっていたことが認められる。

3(一) 次に、かつて覚せい剤を乱用していた者が、覚せい剤の使用以外の例えばアルコールの影響や強いストレス等により、覚せい剤精神病様の状態が再現するいわゆるフラッシュバック(再燃現象)が起こる場合のあることは精神医学において一般的に認められている。しかし、中谷鑑定、徳井鑑定及び福島鑑定いずれにおいても、本件犯行当時、被告人にはフラッシュバックにより幻覚妄想状態が生じていなかったとの判断が示されており、関係各証拠を総合すれば、以下に述べるとおり、右各鑑定の結果は合理的なものとして是認することができる。

(二)(1) この点、まず、被告人に幻覚妄想状態が生じていたかどうかに関連して、被告人の供述を検討すると、被告人は、捜査段階並びに原審及び当審公判廷において概ね次のようなことを述べている。すなわち、自分は、本件犯行の前日A子と会った時から同女を好ましい女性と思っており、当日は自分のアパートに連れ帰って性交渉を持ちたいとも考えていたが、かねてから、何者かに付け狙われているという感じがして恐怖感を抱いていたところ、午後五時ころから、ビアホール「サッポロライオン池袋店」でビールを飲んでA子と話をしている時に、同女が被告人の出身地や住所等をくり返し尋ねてきたので、自分を付け狙う一味ではないかという疑問を抱いた、さらにその後同女に映画に誘われ、映画館に入ったが、暗い場所へ連れ込まれたという不安を抱き、直ぐに出てしまった、その後A子とパブユアーズに入り、さらにビールを飲んで話をしているうち、同女が「今日は遅くなってもいい」といったことから、知り合って二日目の女性が男性に誘いかけるようなことを言うのはおかしいと考え、益々右の疑いを強め、二人ではっきりさせようと思って、ホテルへ誘った、ホテルローヤル二〇二号室では、A子が自分から裸になり、ベッドに上がってアーとかスーとか声を出したので、被告人は同女に騙されるものかと思い、自分は衣服を脱がず、無意識に同女に襲いかかって顔面を拳で殴り、さらにベッドを降りて逃げようとした同女を床の上に倒して殴り、両手で首を絞めた、無意識にやったことで死なす気はなかった(なお、被告人は、司法警察員に対する平成三年三月一三日付け供述調書(原審検察官請求証拠番号乙六号)及び検察官に対する同月一一日付け供述調書並びに原審公判廷における供述中では、ベッドの上に立つA子の右手の壁に「男女の性別は不明ですが、三人か四人の顔がうつって笑っているのが目に入ったのです」と供述し、また、二〇二号室において、自分がA子に暴行を加える前に、A子に対して、「俺を狙ってんじゃないのか」とか「何で付け狙うんだよ」と言ったが、同女は「何言ってんのよ」と冗談のように笑っていたという趣旨の供述をしている。)、その後A子を浴室に連れて行き、同女を浴槽内に入れてお湯か水を入れている時、付け狙う者と決着をつけるためにそれらの者を待っていようと思い付き、客室でビールを飲みながら待っていたが、その時に、映画のパンプレットに「俺を狙っているか、狙っているのは誰だ。来るならいつでも来い」という内容のことを書いた、犯行の翌日である三月一一日千葉方面に付け狙う一味がいると思ったので、偽名で千葉県の朝日新聞拡張団に応募し、団長と面接して一晩下総中山駅の近くの寮に宿泊し、また、自分は「チャイナ系」の者に殴られたことがあることから、その一味が「チャイナ系」で、香港、中国方面にいると思ったので香港に行き、中国、マカオに旅行したなどと述べている。

(2) また、被告人の生活歴と覚せい剤との繋がりについてみるに、関係各証拠によれば、次のような事実が認められる。すなわち、〈1〉被告人は、昭和五〇年ころ、札幌の暴力団が経営するストリップ劇場で働いていた当時に覚せい剤に手を出すことを覚え、その後覚せい剤を常用するようになって、一日か二日に一回の割合で覚せい剤を注射して使用する状態にまで立ち至り、そのころ、夜劇場の照明室で寝ていた際、劇場の方からざわざわという音が聞えるという幻覚を感じたこともあったこと、〈2〉被告人は、昭和五六年九月に殺人の容疑で逮捕されたころまで覚せい剤を頻繁に使用していたところ、右殺人の容疑に関しては、三回の精神鑑定がなされた結果、右犯行当時複雑酩酊状態にあったが、覚せい剤中毒による病的状態が行動化の促進、動機の形成に関与していると推認されるとの鑑定意見もあり、結局、公訴提起がなされなかったこと、しかし、被告人は、その直前ころ覚せい剤を使用していたことにつき、昭和五七年三月に覚せい剤取締法違反の罪により懲役一年一〇月に処せられ、三重刑務所に服役したこと、〈3〉さらに、被告人は、同刑務所に服役中にも幻覚症状のあることを訴えたことから、覚せい剤中毒又は精神分裂病の疑いがあると診断され、四か月足らず岡崎医療刑務所に移送されて治療を受け、その後も時々幻聴の訴えをしたことで、投薬を受けたりしていたこと、〈4〉被告人は、右事件を契機に、その後は覚せい剤の使用をやめていたこと、〈5〉被告人は、昭和五九年三月ころ新聞拡張員の同僚のささいな言動に激昂して殺意をもって果物ナイフで右同僚を突き刺したが、殺人の目的は遂げなかったという事案で、昭和五九年一〇月に殺人未遂罪により懲役四年に処せられたこと、〈5〉被告人は、平成元年一〇月下旬ころ、周囲に対する不安を訴えて、都立松沢病院精神科の診察を受け、その後二週間ないし四週間に一回の割合で同病院に通院し、その際は覚せい剤精神病と診断されたことなどが認められる。

(3) また、本件犯行後の被告人の行動をみるに、関係各証拠によると、被告人は、ホテルローヤルの二〇二号室において、本件犯行直後、映画のパンフレットに自分を付け狙う者に挑戦しているとも理解できるような内容の言葉を書き付けていること、平成二年三月一二日に、急に成田の新東京国際空港から香港へ出国し、同月一八日に帰国したこと、そして帰国後同日付けの実母宛の手紙で、自分を付け狙っている相手を追って香港等に行った旨書き送っていること、同月二六日に都立松沢病院の医師の診察を受け、誰かに追われているような気がする、笑われているような気がするという漠然とした不安感、緊張感を訴えて任意入院を希望し、同月二七日から同年四月七日まで同病院に入院したこと(ただし、入院後短期間の治療で右の不安感が消退している。)、さらに同年八月九日及び同月一一日の二回にわたり、北海道大学医学部付属病院精神科神経科の外来に出かけ、その際誰かに付け狙われていると訴え、尾行している相手を香港等へ捜しに行ったなどと話し、医師から妄想状態(覚せい剤中毒)との診断を受けていることが認められる。

(三) 一方、前記四認定のような本件犯行時及びその前後の被告人の行動につき、幻覚妄想状態などとの結び付きがあるかどうか検討するに、幻覚妄想状態が直接に外に表れたものとみられるような行動は認められない。まず、被告人の本人犯行直前の飲酒時の言動をみると、被告人は、サッポロライオン池袋店とパブユアーズの二軒において、いずれも自分一人でビールを飲みながら、ジュースを飲んでいるA子に対して積極的に話しかけ、とくにパブユアーズにおいては、他の客のグループの女性達とダンスをしたり、さらに、ダンスをしようと執拗に誘いかけ、A子に対しても、他人の目をはばからず同女の横に座って同女の手や首筋にキッスをするなど、酩酊者特有の羞恥心や抑制に乏しい態度や執拗さがみられ、また性的な関心の高まりを示すとともに、比較的陽気な振る舞いをしていたことが認められる。これに対し、A子も、被告人に「今日は遅くなってもいい」などと言い、ホテルに同行し、ホテルローヤルのフロントで被告人が部屋の使用を申し込んだ際、「休憩でいいじゃない」などと口を挟んだりしていることが認められ、こうした同女の様子からみても、同女においては被告人から敵対的な雰囲気を感じ取っていなかったものと認められる。すなわち、以上のような被告人の行動からは、被告人が、A子に対して、同女が自分に危害を加える一味であるとの疑いをもって接していたような状況は窺えないのである。

さらに、被告人の犯行後の行動をみても、被告人は、本件犯行直後に、当時の勤務先から突然姿を消して、約一週間香港、中国等を旅行したりし、被告人が犯行現場にメガネを置き忘れたことから(被告人はその自覚があったことを一貫して認めている。)、本件犯行の二、三か月後には、本件の犯人と特定される危険があるメガネ関係のデータを、購入先から抹消することに強い執着を見せていたのであるが、これら本件犯行後の一連の行動は、被告人の本件犯行に対する警察の追及から逃れたいという気持ちの表れと解することができる。この点、被告人は、本件犯行後の行動について、自分を付け狙う一味を捜そうと思って千葉県へ行き更に香港へ行ったなどと述べている。しかし、従来自分を付け狙う者に追われているという意識(恐怖感)を持って転職を繰り返していた被告人が、さしたる理由もないのに、突如として、逆に自分を付け狙う相手を捜しに勝手知らない香港等にまで、自己の身を守る手だても全く講じないで出かけて行くというのは、覚せい剤精神病の再燃現象による幻覚、妄想状態にある者の行動と仮定して考えてみても不自然さが払拭できない(中谷鑑定及び福島鑑定でも、被告人の犯行時及びその前後の行動に照らして、被告人の述べる幻覚、妄想が不自然であることが指摘されている。なお、被告人がホテルローヤルの客室内で、前記(二)(3)認定のように映画のパンフレットにメモを書いている点について、中谷鑑定は、「犯行の時点で、妄想が存在したことを思わせる。しかし、犯行からホテルを出るまでの時間の幅があるので、自分の行為を妄想に結び付けて意味づけしなおす余地はあったと思われる」とし、徳井鑑定も「残されたメモを素直に取れば、妄想状態となるが、犯行の後三時間程経過しており、犯行を妄想様観念に帰するよう自分を納得させたかも知れない」としている。)。なお、被告人は、千葉県や香港等で、自分を付け狙う一味につき、実際にどのような探索活動をしたのかなど、具体的な説明は全くしていない。

さらに、被告人が、前記(二)(2)〈5〉及び(3)認定のとおり、本件前後に都立松沢病院精神科の診察治療を受けた際にも、かなり漠然とした不安感、緊張感を訴えたに止まるのであって、とくに、本件犯行後の医師への前記のような訴えについては、覚せい剤精神病の残遺症状による不安や誰かに付け狙われているという漠然とした恐怖感に加えて、罪を犯したことから、警察から追及される不安が高まったためであると解することも十分に可能である。なお、被告人の供述中、ホテルローヤル二〇二号室内で、人の顔が壁に映って見えたという幻覚があったと述べている点や、同室内でA子に暴行を加える前に、同女に対して、「俺を狙ってんじゃないのか」とか「何で付け狙うんだよ」と言ったと述べている点は、捜査官の取調べに対し、最初から述べていたものではなく、捜査段階での精神鑑定の過程において鑑定人の質問を受ける中で言い出し、捜査官に対しては逮捕の約半年後に初めて述べたものであって、一貫性を欠き、不自然さが拭えないものである。

(四) 以上から結局、被告人がA子も本件当時付け狙われていたチャイナ系の者の一味ではないかとの疑い(妄想)を強めて、その点を追及するために同女をホテルに誘ったうえ、更にホテルの部屋の壁に三、四人の人の顔が現れたという幻覚まで生じた結果A子を追及した上で暴行を加えたと述べる点については、にわかにこれを信用することが困難というほかない。そして、以上認定のような被告人の本件犯行当時ないしその前後の行動や覚せい剤の使用歴などと、中谷鑑定、徳井鑑定及び福島鑑定とを総合すると、被告人が本件犯行当時、覚せい剤精神病の残遺症状と多量の飲酒とが重なって再燃現象(フラッシュバック)による幻覚妄想状態にあったものではないと認められる。したがって、所論は、その限りにおいては採用することができない。

4 所論は、本件当時被告人は、五六三〇ミリリットル(なお、弁論要旨において五四三〇ミリリットルと訂正)もの大量のビールを飲んでいたから、病的酩酊又は少なくとも複雑酩酊の状態にあったと主張している。

(一) この点、まず、被告人の当日の飲酒量をみると、前記四の2認定のとおり、サッポロライオン池袋店において、午後五時過ぎから午後六時半過ぎまでの間に、約八〇〇ミリリットル入りの生ビール中ジョッキ一杯と約四八〇ミリリットル入りの小ジョッキ六杯(合計三六八〇ミリリットル)を飲み、さらにパブユアーズにおいて、午後六時五〇分ころから午後九時ころまでの間に三五〇ミリリットル入りのビール小瓶五本(合計一七五〇ミリリットル)を注文したことが認められるから、被告人は五四三〇ミリリットル近い量のビール(六三三ミリリットル入りのビール大瓶で約八・五本分)を飲んだ可能性がある。

(二)(1) 次に、飲酒中の被告人の言動及び状態をみると、前記四の2(2)ないし(7)認定の各事実から窺われるように、サッポロライオン池袋店においては、さして特異な酩酊状態は認められなかったが、パブユアーズにおいては、飲酒による酩酊状態を呈しており、抑制や羞恥心が乏しくなり、女性に対する関心の高まりや執拗な態度が認められるが、それ以上に暴れたり、意味不明の言葉を発するようなことはなかったと認められる。

(2) また、ホテルローヤルにおける被告人の行動をみても、関係各証拠によれば、三月一〇日午後九時ころ、ホテルローヤルに入った段階においても、自ら宿泊を申し込み、A子の意見で休憩に変更していることなどその行動はほぼ正常であり、とくにひどく酩酊している様子は認められなかったのである。その後、被告人は、同ホテルで、午後一〇時五〇分ころ、フロント係からの電話に対して休憩時間の延長を頼み、さらに、午後一一時四〇分ころ同様の電話に対して宿泊を申し込んで、二〇二号室に来た従業員に宿泊代金を払ったこと、さらに、三月一一日午前〇時一〇分ころビールを買うために両替を頼みにフロントへ行ったが、その際フロント係から左手の人差指の付け根と手のひらの中央部分に血が付いていることを指摘されていること、被告人は、その後再びフロントに出向いて、自動販売機からビールが出ないと言ってビールを注文し、従業員が二〇二号室まで缶ビール二本を運んだが、被告人は入口のドアを開けて待っていたこと、被告人は、午前一時半ころ、フロントに来て、連れは風呂に入っているから先に帰ると嘘をついて帰ろうとし、フロント係から連れの女性の声を聞かなければ帰せないと言われていったん部屋へ戻った後も、フロント係から更に電話がかかってくると「なぜ帰さないのか」と怒鳴りつけるなどしたが、その後、再び玄関に来て大声を出すなどして強引にドアを開けさせて帰って行ったことが認められる。

(3) 右(1)及び(2)認定の各事実を総合すると、ホテルローヤルに入る直前の段階において、右(1)認定のような酩酊状態にあったことが認められるものの、それは単純酩酊であり、ホテルローヤルに入った時点や、午後一〇時五〇分ころ以降の同ホテル従業員に目撃された時点における被告人の言動、態度をみても、この段階における被告人の状態も同様であって、異常酩酊の状態にあったとの徴候を示す特異な言動は窺えない。そして、中谷鑑定、徳井鑑定及び福島鑑定は、被告人の本件前後の言動や粗大な意識障害が否定できることなどから、一致して、病的酩酊や複雑酩酊の状態にあったとは認められないとしているのであって、以上の事実関係に照らせば、右鑑定の結果は合理的なものとして肯認することができる。したがって、所論は、採用の限りではない。

六  1 しかしながら、ひるがえって、本件犯行の状況、犯行の動機などについて再度検討すると、通常人の行動として理解することの困難な部分のあることも否定できない。被告人は、前記五の3(二)(1)掲記のとおり、自分は、本件の前日にA子と出会った当初から、同女に対して、女性として好感を持ち、本件当日もうまく行けば、同女と性的交渉を持とうと考えていた旨述べているところ、前記四の2(2)ないし(9)認定のように、被告人が二軒の店で飲酒した際、性的関心も高まった様子を見せ、A子に寄り添って話しかけたり、同女の身体に接触し、その手や首筋にキッスするなどして親密感を示し、同女をホテルに誘っていることが明らかである。他方、A子も、同認定のように、その性格からか外見的には浮き浮きした様子は認められていないものの、被告人が自己の身体へ接触することをさして嫌がってる様子は窺われず、ホテルへの誘いに応じていることは明らかである。ホテルローヤルの客室内においても、前記四認定のとおり、同女は、全裸になっているが、右のようにホテルローヤルに入った際の同女の示した様子などからみて、被告人が同女の着衣を無理矢理脱がしたとは考えにくく、またその時被告人と性交渉を持つことに同女が否定的な態度をとるようになったなどとは到底考えられない。それにもかかわらず、前記四の1認定のとおり、被告人は、ホテルローヤルに入ってさほど時間もたたない内に、突如として同女に対して右四の1(一)認定の状況から窺われるような激しい暴行を加え、両手で同女の首を絞めて殺害しているのであって、何故このような残虐な行動に出たのか、容易に理解しがたいものが残るというほかない。また、本件犯行については目撃者がなく、被告人の供述をみても、右ホテル客室内の惨状がどのような暴行によって生じたのかなどの客観的状況に見合う十分な説明がされていないし、逆に被告人の供述中にも、客観的事実の裏付けがない点が多い。すなわち、関係各証拠を子細に検討しても、被告人が、A子に暴行を加え、殺害するに至った動機の点を初め、犯行の態様、犯行時間(この点、原判決が、本件犯行時間を午後九時三〇分ころから一〇時ころまでの間と認定していることにつき、疑問が残ることは、前記四の1(二)において検討したとおりである。)、被告人が着衣を着ていたのか否か、A子に対して、客室のベッドの上以外に、床の上において顔面を殴打し頚部を扼したという事実があるのか否か、A子の性器や肛門に異物を挿入したり、乳頭にかみついた状況やその時点等、証拠上必ずしも明らかでない事実が多い。例えば、被告人は、捜査官に対する各供述調書中で、自分は衣服を脱がないで、全裸のA子に飛びかかって行き、馬乗りになって暴行を加えた旨一貫して述べているが、そうであれば二〇二号室における血痕の飛び散り方からみて、被告人の着衣にも多量の血液が付着するのが自然である。この点、被告人は、ズボンの裾に血が付いているのを翌日発見して洗ったと述べているが、到底その程度では済まないと思われる。しかし、ホテルローヤルのフロント係など従業員らや、本件犯行後に被告人と一緒にホテルニューメルヘンに入った男性、同ホテルの従業員らは、いずれも被告人の着衣に血液が付着していることに気付いたとは述べていないのである。そして、被告人の述べる犯行態様によっても、前記四の1(一)認定のような二〇二号室内の状況、とくに血痕の飛び散った状況は十分説明できていないし、また、被告人が同客室の床上にA子を押し倒して殴打した上頚部を絞めたと述べている点も、床上に顕著な血痕が残っていないことなどに照らし、客観的な裏付けは欠けているのである。さらに、A子の陰部及び肛門に異物(膣内に挿入した物は浴室にあったリンス容器と認められる。)を挿入したことなどについても、被告人は、その客観的事実のみを供述しているものの、その時の被告人の心の動きなどは全く説明していないのである。

2(一) 本件犯行の動機についても、前記五の3で検討したとおり、被告人の述べるような妄想に基づくものとは認められないが、これを解明することも極めて困難である。すなわち、具体的な動機に関し、これを知ることの出来る資料もほとんど見当たらず、また、右のように本件犯行の具体的な状況も明らかでない点が多いことから、客観的状況から動機を窺うことも困難である。

(二) この点、原判決は、争点に対する判断の項二4(4)において、被告人の本件犯行の動機について、「被告人は、本件犯行当日、被害者がビアホールやパブユアーズで、被告人の住所、職業等について同じことを繰り返し質問してきた旨供述するところ、関係証拠によれば、被害者は、昭和六三年夏ころから、誰かが自分を殺そうとしていると口走ったり、母親と弟が肉体関係を持っていると決めつけて母親を面罵するなどの妄想様の言動をするようになって精神科を受診させられ、精神分裂病の診断病名で投薬治療を受けるようになり、以後、薬を飲んでいる間は右の妄想様の言動はある程度収まったが、犯行当日及び前日は薬を飲んでいなかったことが認められ、右の事実関係からすると、本件犯行当日、被害者は右の症状の影響のもとで、被告人の住所、職業その他被告人があまり触れられたくないようなプライバシーについて過度の関心を抱き、被告人が立腹するほど繰り返し質問してきたことは十分あり得ることであり、その限りで被告人の右供述部分は事実であったと考えられる。そして、右にみたことからすれば、ホテルローヤルの室内においても、被害者が、ホテルまで一緒に来たという親密感も加わり、更に同様の質問をしつこく繰り返し、被告人の憤激を引き起こしたことが容易に推認されるところである。」との判断を示している。

しかし、関係各証拠によると、A子の性格や当時の生活状況などは次のようなものであったと認められる。すなわち、A子は、消極的で大人しい地味な女性であったこと、母親からとくに男性との交際や帰宅時間については厳しく監督されていたが、最近母親のこのような態度に反発していた様子で、退社後池袋の街をぶらつくようなこともあったこと、これまで男性との交際の経験も乏しく、行きずりの男性に誘われてついて行ったこともあったと窺われるものの、本件当時交際していた男性はいなかったこと、また、A子は、平成元年七月ころ、妄想が強く現れるなど精神状態が不安定となり、精神分裂病の診断を受け、以後投薬治療を受けていたこと(ただし、A子は、本件当日及びその前日には、医師から処方された薬を飲んでいなかったと窺われる。)、しかし本件当時は、人材派遣会社に採用され、コンピューターソフト関係の会社に派遣されて真面目に通勤しており、まだ仕事は十分にはできなかったものの、とくに上司や同僚からも異常な言動を指摘されるようなことはなかったことなどが認められる。そして、右のような生活状況などをみると、所論が指摘するとおり、A子は、最近投薬の効果で精神状態が安定し、通常の社会生活を営むことができるようになっており、本件犯行当日も会社において異常な言動はなかったと認められ、原判決説示のように、本件の前日から服薬をしていなかったことから直ちに、同女が精神の安定を欠いた状態にあったとは必ずしも断定できないのである。さらに、前記四の2(2)ないし(9)認定のとおり、サッポロライオン池袋店やパブユアーズにおいて、被告人がA子に一方的に話しかけている様子は目撃されているが、同女が被告人に対して、繰り返し質問していた様子は目撃されていないばかりか、被告人が同女の手や首筋にキッスをしていたことやその後同女を誘ってホテルへ行ったという被告人の態度からみて、被告人が、パブユアーズにおいてA子に不愉快な感情を抱いていたとは認め難いのである。この点、被告人は、当審公判廷において、A子に対する自分の気持について、「パブでは楽しい気持と、付け狙っている人たちをどうしたら良いだろうという気持の二つがあったと思います」(パブユアーズで飲んでいる間、疑いの気持が大きくなったのですかとの問いに)「はい」(好意はどうでしたかとの問いに)「一部心の中に残っていました」と述べているが、右供述は前記認定のようなパブユアーズにおける被告人の言動に照らしにわかに信用し難い。

そうすると、原判示認定のように、同女が妄想を抱いて被告人に執拗な質問を繰り返したと断定することにはなお合理的な疑いが残り、したがって、被告人のA子殺害の動機が、原判決の認定判示するようなものであったと認めることはできないというべきである(なお、被告人は、性的な目的で、A子をホテルに誘ったことは十分に考えられ、またA子の乳首をかんだり、性器や肛門に異物を挿入したりしていることから、何らかの性的衝動と絡んで本件犯行が行われた疑いもあり、中谷鑑定、福島鑑定中にもそのように示唆している部分があるが、この点も推測の域を出ず、この線に沿って合理的な疑いを容れない程度に犯行動機を認定することも困難である。)。

(三) なお、前記四認定のように、ホテルローヤルの客室に入る時点における被告人の言動及び被告人が同ホテルの従業員と再び接触するようになった時点以降の言動は、通常人の行動とほとんど変わりがないものと認められるが、そのことから直ちに本件犯行時における被告人の言動ないしは精神状態が通常人のそれと同一であったと認めることは許されない。また被告人の酩酊状態についても、前記五の4認定のとおり、被告人が本件直前に極めて多量のビールを飲んでいることが明らかであり、酔いの状態は右認定のように単純酩酊であったと窺われるものの、ホテルローヤルに入った後にさらに酔いの程度が深まった可能性も全く否定することはできない。

3 ところで、中谷鑑定においては、被告人の本件犯行時の精神状態については、「人格障害・覚せい剤精神病の残遺症状・飲酒を複合的要因として爆発性が高まった状態で、何らかの刺激が誘因となって爆発的興奮が生じた可能性が非常に高い。従って、自己の行為の是非を弁識し、かつこれに従って行動する能力は、喪失していなかったが、著しく低下していた疑いが極めて強い。」との鑑定結果が出されており、被告人の人格障害については、被告人はクルト・シュナイダーの分類に従うと爆発型、自己顕示型、意思欠如型の混合と考えられる、そして、爆発型の人格障害の人の特徴は、日頃は平静であるが、非常にささいな動機で激昂し、ときに熟慮なく暴力を振るう、急激に興奮するが、鎮静するのも速いというのが鑑定人の診断である。

また、徳井鑑定も福島鑑定も、被告人が人格障害者又は精神病質者であること(福島鑑定は、爆発性、意思欠如性、情性欠如性を主徴とする人格障害者とする。)、本件犯行当時覚せい剤精神病の後遺症状として、被害的な妄想様観念等の出没があったことを認めている。そして、徳井鑑定は、犯行(殺人)は妄想の直接支配よりも、酩酊による除制止状態において何らかの誘因による情動行為を招来したとする方が可能性として高いと思われるとした上で、妄想様観念の関与を完全には否定できず、もし本件殺人が、何らかの誘因によって、被告人(鑑定当時は、被疑者)に生起した激情がA子に対する妄想様観念と結合して犯行を駆動した場合、または犯行がA子に対する妄想様観念自体の攻撃的な追求による場合は、前記精神能力は著しい障害を受けていたとみなされるとしている。ただし、福島鑑定は、被告人の本件犯行当時の精神状態は、現在の人格障害の上に、軽度の単純酩酊が加わったものであり、被害妄想の出没が認められるが、行為の是非善悪を認識する能力またはこの認識にしたがって行為する能力は、通常人の普通の精神状態に比較して多少は低下していたかもしれないとはいえ、その能力が著しい程度まで低下していたとは考えられないとしている(なお、福島鑑定は、「精神病質や人格障害の存在は人格の平均からの単なる偏り(変異)であって、疾病ではない。また、疾病に準じる精神状態でもない。したがって、その精神病質や人格障害がどのような種類のものであり、またどのような程度のものであっても、現在の通説としては責任能力に影響を与えないのである」との理論的立場に立つことを前提としている。)。

4 以上要するに、本件においては、前記のとおり犯行の態様や具体的状況で明らかでない点が多く、犯行の動機も明らかになっておらず、むしろ、A子の死体に残された残虐な犯行の痕跡や二〇二号室に残った惨状などから窺われる被告人の本件犯行時の行動については、通常人の行動として理解困難と考えられるものも含まれているというほかないのである。そして、このように本件犯行の動機が不明であることや、被告人の本件犯行時の行動に了解困難な部分もあることに加え、各鑑定の結果を合わせ考えると、結局、中谷鑑定も指摘するように、本件犯行が、被告人の人格障害や覚せい剤精神病の残遺症状、多量の飲酒を複合的要因として爆発性が高まった状態で、何らかの刺激が誘因となって爆発的興奮が生じたのではないかという疑いが残るというほかない。すなわち、本件犯行当時被告人が心神耗弱の状態にあった疑いがあるというべきである。

5 そうすると、被告人に完全責任能力を認めた原判決の認定及び法令の適用のうち、本件犯行当時是非善悪の判断能力及びこれに従って行動する能力が喪失していなかったという点については、これを正当として是認できるが、その能力が著しく減弱していなかったとの認定については合理的疑いを差し挟む余地があり、したがって、原判決には、この点で判決に影響を及ぼすことが明らかな事実認定の誤り及び法令適用の誤りがあるというべきである。論旨は、理由がある。

七  以上の次第で、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条を適用して、原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により、被告事件につき更に次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、平成二年三月一〇日午後九時五分ころ、A子(昭和四一年三月一一日生)と一緒に東京都豊島区池袋〈番地略〉所在のホテル「ローヤル」二〇二号室に入室したが、そのころから同日午後一〇時五〇分ころまでの間に、同室内において、衣服を脱いでベッドの上にいた同女の顔面を多数回手拳で強く殴りつけたり、同女の体の上に馬乗りになったりし、さらに、殺意をもって、同女の頚部を両手で強く扼し、よって、そのころ同室内において、同女を扼頚による急性窒息により死亡させて殺害したものである。

なお、被告人は、右犯行当時、人格障害及び覚せい剤精神病の残遺症状に、多量の飲酒による酩酊の影響が加わったことなどのため、心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(累犯前科)

原判決の累犯前科の項に掲記のとおりであるから、これを引用する。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、前記の前科があるので同法五六条一項、五七条により同法一四条の制限内で再犯の加重をし、本件犯行は心神耗弱者の行為であるから、同法三九条二項、六八条三号を適用して法律上の減軽をした刑期の範囲内で、被告人を懲役九年に処し、同法二一条を適用して、原審における未決勾留日数中五〇〇日を右の刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して、全部被告人に負担させないこととする。

(原審弁護人の主張に対する判断)

原審弁護人は、被告人が判示犯行に際し、心神耗弱の状態にとどまらず、心神喪失の状態にあった旨主張しているが、被告人が本件犯行当時、覚せい剤精神病等による幻覚妄想状態や病的酩酊又は複雑酩酊による異常な精神状態になかったことは、さきに検討したとおりであって、被告人が心神喪失の状態にあったとする弁護人の右主張は採用することができない。

(量刑の理由)

本件は、犯行の日の前日に知り合ったばかりの若い女性とデートをし、ビアホールとパブで被告人だけが多量に飲酒した上、同女を誘っていわゆるラブホテルに入ったが、同ホテルの客室内で同女の言動から激しい興奮状態に陥り、同女の顔面を殴打するなどの激しい暴行を加えた上頚部を両手で扼して殺害したという事案である。その犯行の動機などが明らかでないが、その暴行の態様は全裸の同女をベッドの上で多数回にわたり手拳で激しく殴打し、鼻骨骨折等の傷害を与え、またそのために被害者の血液がベッドの上はもとより客室の壁面の大型の鏡や天井にまで飛び散らせており、また、その時期は必ずしも明らかでないが、同女の乳首が傷付くほどに咬み、陰部や肛門に異物を差し込んで傷つけるという極めて残虐なものである。おそらくは理由もわからずに殺された驚愕と恐怖、辛かった思春期を過ごして、ようやく健康も生活も安定しつつあり、若い女性としての楽しい生活を夢見ていたのに、予想もしない事態で突然命を奪われてしまった被害者の無念さ及び女手一つで手塩にかけて育ててきた被害者の実母を初め遺族の悲嘆は察するに余りがあり、遺族の被害感情は厳しいものがある。これに対して、被告人は、当審公判中に、被害者の実母に対して「謝罪書」と題する手紙を出したことのほかは、これまで遺族らを慰謝するに足りる措置は何ら講じられていない。加えて、被告人は、不起訴処分になったとはいえ、昭和五六年当時覚せい剤中毒による病的状態と複雑酩酊が重なり、殺人事件を犯した前歴があるほか、昭和五九年三月には飲酒中ささいなことから激昂して同居人を刃物で突き刺し殺人未遂罪により懲役四年に処せられた前科があり、多量の飲酒をした場合には粗暴な犯行を行ってしまう危険な性癖があることについては自ら十分認識しておりながら自戒が足りず、今回も多量に飲酒した上又しても本件の重大な犯行に及んだものであり、被告人には人命を軽視する残虐な人格態度が顕著に認められ、再犯のおそれも否定できない。したがって、以上の諸点に照らし、被告人の刑事責任は重大であるというほかはない。

他面、被告人は、判示認定のとおり本件犯行当時心神耗弱の状態にあったことに加え、本件は偶発的な犯行であること、被告人が現在では反省の態度を示し、前記のとおり被害者の遺族に対しお詫びの手紙を送るなど、被告人のためにしん酌すべき事情もいくつか見出すことができる。

そこで、これら被告人に有利又は不利な諸情状を総合考慮して、前示のとおり刑を量定した次第である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本時夫 裁判官 小田健司及び同虎井寧夫は、転補のため、署名押印することができない。裁判長裁判官 松本時夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例